アポリカ!通信 2023年6月:『More Dramatic than Drama』(前編)

 記念すべきアポロン&ユウリカ初、海外の名門大学合格。Congratulations, M!

 一つひとつの合格は、数え切れない程の選択や出来事が連なってたどり着いた結果だからこそ、尊い。名実ともに『受験生』になるまでの葛藤や決断、ご家族の理解と支援、新たな出会いや影響などを経て、時に運や偶然とも呼ばれる出来事も伴って、ようやく実を結ぶ。今回は、Mの合格までの足跡を、二回に渡ってまとめてみようと思う。

 Mと最初に会ったのは、アポロンが開業してまだ間もない頃。カフェ・ジューディの隣りの小さな教室に、お母さんと二人で来てくれた。当時は椅子ではなく、座布団に座って面談するジャパニーズ・スタイルだったが、Mもお母さんも、初対面から明るい笑顔で接してくれて、親しみやすい印象だった。Mは日頃からアメリカのTVドラマをよく観ていた影響で、海外の生活や文化に対する憧れを持っていたけれど、まさかその6年後に、自分が大学生として海外で生活することになるような筋書きは、おそらく想像していなかったと思う。

 レッスンでは、今の『Reading IN&OUT』の原型のような、洋書を読み込んで英語で意見を交わす練習を重ねていた。そしてMが中学2年の今頃だったか、お母さんから短期留学についての相談希望を頂いた。区立中には英語圏の留学プログラムが乏しいのと、翌年には受験が控えていたので、あの夏休みが好機と悟ったのだと思う。ただ、当時は小さな個人塾で、ご家族の信頼に足るような支援体制もなかったので、大規模な留学フェアへの参加をお勧めした。

 その結果、やはり縁があったのだろうか、Mが留学先に選んだのはオーストラリアだった。3週間経って、無事に帰国したMは、見違えるように成長していた。現地でできた友達との交流を嬉々として語るのを聞きながら、短期間にも関わらず、英語の発音(オーストラリア訛り)や会話力、雰囲気が別人のように成長していて驚いたのを今でも覚えている。

 Mは受験生になると、さらに意識が高まって勉強に向き合うようになった。当初から大学附属の高校を希望していて、とある都内の私立高校を志望していた。ただ本人のポテンシャルを考えるともう一つ上のランクを狙えると思い、試しにいくつか説明会への参加を提案してみた。謙遜からかM本人は今でも認めてくれないが、志望校が定まってからは勉強量もそれなりに増えていたと思う。頻繁に塾に来て、授業の合間の空き時間も、惜しむように自習に充てていた。その努力が報われて、見事志望校に合格。さらにその後も塾を辞めずに通ってくれた。この後の展開を考えると、この時の判断は重要だったと思う。

 友人にも恵まれて、楽しく充実した高校生活を送っていた。文化祭など学校行事で要職に就き、かなり忙しい時期もあったが、いざ定期テストの前になると、持ち前の集中力を発揮して好結果を出し続けた。当然ながら英語の成績も良く、10段階で『9』を一貫して取り続けながら、アポロン的なインタラクティブな場でコミュニケーション力も磨かれていった。Mの発言や明るい笑い声が聞こえると、学びは真剣に楽しむのが一番だよな、と頷きたくなった。

 そして最終学年。大学附属校なので、そのまま内部進学するのが既定路線だった。実際、興味のありそうな学部を最終的に2つまで絞り、真剣に考え始めていた。学部の名前より中身を考えると、人気のある方よりもそうでない方が本人が学びたいこと、将来やりたい仕事に近いのかも知れない等、感心するくらいしっかりと考えていた。

 そんな折に、私の脳裏に、Mのオーストラリア短期留学の経験が蘇ってきた。留学をして欲しいという希望よりも、どんな化学反応があるか分からないけれど、進路選択にプラスになればと、留学カウンセラーW氏との面談を提案した。日時を調整して、いざ当日。Mとお母さん、そしてW氏の3人で、ユウリカのラウンジで1時間ほど面談してもらった。

 すでに内部進学の準備が進んでいた文脈で、初顔合わせの留学カウンセリングということもあり、私の方は少しソワソワとしていた。しかし面談が終わって声を掛けると、Mもお母さんも、何か大きな発見をした直後のような表情をしていた。お母さんも、熱心に聞き入る我が子の様子を見て、変化の前兆というか胎動というべきか、新しい何かがうごめくのを感じていたように思う。

 アポロンからユウリカへ。どんな化学反応式が生じていたのかは分からないが、すでにこの時、Mのドラマは大きく展開し始めていた。

(後編は7月に…)